昭和46年07月13日 朝の御理解



 御神訓一、「神信心のなき人は、親に孝のなきも人の道を知らぬも同じことぞや。」

 これは、お道の信心にして言えれることだと思うですね。神信心のなき人は、親に孝のなきも同じこと。神信心と言うても、やはり、沢山いろいろありますから、お道の信心においては、金光大神お取次を頂いて、そして天地金乃神様を拝ませてもらうのですから、その天地金乃神様のお心を、大して、私どもが日常生活をさせて頂くと言うこと。その事が親孝行に通じる。親の心に添う、神様の心に添う生き方、そういう風に説くのですから、天地をそのまま親として頂く頂き方。
 金光教の信心をして、これがこういう事は言えれるんだと言う事であります。人の道を知らぬも同じ事と。お互いやはり人間であれば人間の道というものを大体、みんな歩いておるのですね。人間が言わば「けものの道」を歩いておるとは思われない。人間はやはり人間の道を歩いている。ですからそういう修養的なもの、の意味に於いての人の道でなくて。どこまでもお道の信心によって、言えれる所の人の道であります。
 私どもが例えば親があってもその親に対して。親のあることの喜びを知らない人もあります。けれども、親がおってくれる事が有難い。親と言うものはこの様に子供の事を思うたり、又は、子供の事の為にならば、自分の身を投げ打ってでも、子供のために尽くす。その親の心というものに触れた時に、本当に親なればこそと言う心が起ってくるし、又、親のある喜びということが言えれるわけであります。私共が信心させて頂いておる。ここに初めて親はあるのだけれども、それを信心のない間は知らなかった。
 信心をさせて頂くようになって天地の親、その親様のおかげでと言う事がわかってくるのが金光様のご信心なのです。昨日は美登里会がございましたが。美登里会でしばらくお話をさせて頂いたんです。その中で久留米の野口つぁんが、こういう事を発表しておられました。子供さんが沢山おられます。現在久留米の方にもご長男夫婦、それから娘さん夫婦が一緒に同居しておる。それから壱岐にも娘さんが縁に付いておられる。小倉の富永さん、それからもう一人、娘さんが市内に嫁行っておられます。
 もういつの場合でも、どの子供かが、心配をかけておると言うのじゃなくて、どの子の為にか、一生懸命、野口つぁんが、いろいろとお世話をなさるわけです。丁度、二、三日前から、壱岐の娘さん達夫婦が、熊本の方へ変られることについて、その為にお母さんが熊本の方に行き、しかもそのまた相談ごとがありますから、もう直行して、小倉の方へ行かれて、富永先生達夫妻に、その話を持っていかれて、いろいろと話を取り進めていかれたわけです。子供が心配をかけるというのじゃない。
 けども、子供の立行きのために、親がもう、それこそ、自分の疲れも忘れて、この暑いのに、熊本から小倉、小倉から久留米というふうに、駆け回っておられる、お母さんの姿を見てね、富永さんが言われたち。本当に私は思いますが、両親が健康でこれほど子供達のために一生懸命働いておって下さるということを、目のあたりに見て、親を持っておる事の有難さをしみじみ感じると、お母さん言われたということです。
 本当に親なればこそです。本当にまぁようもお母さん、お世話が出来る事だと、親を持っておることの有難さを、改めてしみじみ感じさせて頂くと、長女であります富永さんですね、お母さんにそう言うた。佳子がそう申しましたと言うてから、昨日、話しておられました。ですから例え親を持っておってもです。その親に対して、親を持っておることの喜びがしみじみと感じられると言うところから、お道の信心は発足すると言うても良いです。本当の意味に於いてのお道の信心は。
 天地の親神様が、私ども氏子一人一人の上なのですけれども、その一人一人の上に、まぁ切なる願い、おかげを下さろう、幸せになってくれよと言う思いを持ってござるという事がわかる時です。本当に信心をさせて頂いておる。いや金光様のご信心を頂いておるという事の有難さを、しみじみと感じる。私はね、金光様のご信心は、ここが、しみじみとわからなければ駄目だと思うですね。でなかったら、只、金光様のご信心を頂いておると言うだけです。
 天地の親神様のご信心を頂いて、天地の親神様の御働きをです、日々の中に感じさせてもろうて。本当に親神様を頂いておるという事の有難さが、しみじみわかるところから、成程、信心のなき人は、親に孝のなきも同じことという事がわかるですね。本当に天地の親神様の御恩恵に浴しておると、しかもこれは、銘々が、私の様な者に対しましてでも、神様は、この様な思いをかけて下さり、この様な働きをして下さる。
 それは富永さんが、野口つぁん、お母さんの子供のために、あっちに行ったりこっちに行ったりして、しかも何とかなし元気いっぱい、或る意味では嬉々として御用を頂いておられる姿を見て、親を持っておることの幸せを、しみじみ感じたと言われるように。天地の親神様を親とわからせてもろうて、その親神様に縋れれる道にあるということは、何と有難いことであろうかと、しみじみわからせて頂くところから、私は金光様のご信心は、本当は、そこからが発足だと思う、金光様のご信心の。
 だからこそ、天地書附にありますように、生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありと。おかげは和賀心にありと言うことは、どういう事かと言うとね、本当に有難いことであるなぁ。天地の親神様の、この様なご恩恵の中にあって、そこをわからせてもろうた。金光様のご信心に、金光大神のお取次によって、それをわからせて貰うた。そのわからせて頂いたことがです、しみじみと有難いという心である事が、私は和賀心だと思うね。本当に神様なればこそ、親神様なればこそ。
 私どもごとき、一屑の子に対してでも、この様な、おかげを下さるんだ。この様な思いをかけておって下さるんだ。本当に金光様のご信心に縁を頂いたという事自体が、まぁ何と有難い事であろうかと思う心。私は、その心が和賀心だと思う。ですからね、次にはもう、一心に願えばっかりでいいわけなんです。願ってみて又感ずる事なんですけれどもね、まぁ本当に願ってみて思う事は、この様な事にまで願えこの様な事まで、神様はおかげを下さる。例えば私は沢山お水を頂く。
 冷たいものを頂く。氷なんかはこんな丼で頂くんですよね。本当にその氷なんか食べますとね、あの丼一杯食べると二回くらい頭の芯が、ずきずき痛んでくるんです。皆さんも経験があるでしょう。冷たいものを飲んだり食べたりするとね、頭がずきずきする。それでもうこれは去年くらいからですけど、氷を頂く前に折角美味しく氷を頂くのですから、頭が痛くなったらいかんから、どうぞ頭が痛くならんようにお願いしますと、お願いしてから、頂くようになって以来、一回も頭が痛むことがない。
 もう頂くたべんに、私は頭がずきずきしよった。氷を食べると、丼一杯も頂きますから。多い時には、二回ぐらい頭が痛くなる。しかもその、例えば、そういうような事をお願いさせて頂いて、思わせて頂くことは、もう神様が、待ってござったという感じがします。どうして願わんじゃろうかと、今までは、神様は思うて下さったんだろうと思うくらいであります。皆さん、もうすべての事をね、一心に願わにゃいけん。問題は一心に願わにゃいけませんよ。
 生神金光大神天地金乃神、今からどこどこに行きますから、どうぞ宜しゅうと。只今から、氷を食べます、頭が痛みませんようにと。例えて言うと、そういう些細な事なんですけれども、食べながら苦しまんならん様なことがないように願うんです。そして、願っておかげを頂いて、思う事なんですよね。神様が、どうして早う願わなかったかと言うてござるような気が致します。願わん事は、神も仏も知らず。昔から言うが、確かにそうですよ。それはもう御礼さえ申し上げときゃおかげは下さる。成程おかげは下さるけれども、そういうおかげではまだ足らんのです私どもは。
 人間が生きていくうえにはです。私は願うという事の素晴らしいこと。願うという事は、これは親孝行です。こげなこつまでお願いしちゃならんと。それは、親神様を親神様とまだ知らんからです。たったその位の事と思うて、お参りしよるばってん、たったその位の事が、失敗、大怪我の元になるようなことがあるか知れん。神様はもう願われとうて、願われとうてたまらんでござるのが親神様なのです。そげなことは、もうあんたがせんのと、例えば言いながらも、矢張り頼まれれば親は嬉しい。
 親が出来る事ならば、親が出来んことを言うことは、これは親不孝ですよね。親がお金を持たんとに、お金を工面してくれ。お金をくれでんなんでん言うならね、これは親不孝ですよ。けれども、天地金乃神様の場合は、そうじゃないでしょうが。もう限りない、人間の幸せに必要な一切のものをお持ちになっておられる神様。だから頭が痛むなら頭が痛まんごと、腹が痛むなら腹が痛まんごと、お金がここに幾ら要るなら幾ら要ることを、頼ましてもらうという事がです、如何に素晴らしい事かと。
 しかもそれは親孝行になるのだと言うことです、或る意味では。私は本当にこの願うという事はね、金光教で言う願いは、そういう事だと思う。金光教で言う願いという事は、親孝行なんです。けれどもそこに生神金光大神天地金乃神一心に願わなければならない事と同時に、こういう親神様を持っておることの有難さというものを、しみじみ感じさせて頂きながらの、願いでなからなければいけない事は勿論です。
 富永さんが、お母さんに言うておられるように、この暑いのに、さぁ熊本、久留米、そしてまた、小倉までも直行で来て、そして娘達夫婦のことを、あーのこうのと、いろいろ心配して下さってある。そういう親の姿を見てから、しみじみ親のあることの喜びがわかったと、お母さんに言うておられる。そういう実感がです。信心を頂いておる事の、金光様の御信心を頂いておる事の、合楽に御縁を頂いておるという事の有難さを、しみじみ有難いなぁと感じさせて頂く。
 その心で、生神金光大神天地金乃神一心に願うのであります。只、いきなり願うち言うこっじゃいかんです。頼みさえすればと言うことではないです。しかもね、親が持たん物までくれというようなことじゃいかん。親が、例えよし、持っておってもです、どうしてもやれないこともある。これだけは、子供のためにやれない。そういう願いをすることはどうかと思う。いやそれは親不孝かも知れん。
 今、申しますように、親はお金を持たんとに、子供がつまらん事に金を使うてしもうて、金が足らん。それで金十万円作ってくれと、親に言うごとある。こういう願いはおかしい。これはおかしいじゃない親不孝。けども親が持っておる。もうやろうごとしてたまらん。ならば下さいと言うなら、もう喜んでやろうが。それが親心なんだ。だから金光教の信心はね、そういう信心に立って、所謂、お道の信心を頂いて、天地の親神様の有難さというものをです、しみじみ実感させて頂けれる心の状態を持ってです。
 生神金光大神天地金乃神と一心に願うならば、それはどのような事でも、願わなければならない。いや願うことが親孝行であり、神の喜びであるという事。だから親孝行の信心とはね、親に上げます上げますという事ばっかりが親孝行じゃないです。貰うことも親孝行です。そりゃもう御用させてもらわんならん。お供えさせてもらわんならん。そういうことが親孝行んごと思うとると、反対間違う。
 それは何か下心があってから、親からいっちょ、それこそ海老で鯛釣るごと心を持っておってから、ちょこっとばっかりのお供えどんしてから、おかげ下さいと言うなら、むしろ、それは見え透いてる。これが貰う時ばっかり、むごう言うちいうごたる事しか、親に感じさせない。それよりかむしろ、赤裸々に、ないものならないもの、困っておるなら困っておる事をです、切実に、一心を以て願うという事こそ、親孝行である。生神金光大神天地金乃神と願うのである。
 それにはね、天地の親神様を親神様として感じられるところまで、信心を進めなければならん事がわかります。いつでも、どこででも、神様を頂いておるという事の、いわば親のあると言うことの有難さを、しみじみ、いつも感じておられると言う信心が、だから、先ず求められるわけであります。今日は私は、和賀心の新たな解釈ですね、私が今日言っておるのは。和らぎ賀ぶ心ということ。合楽に御神縁を頂いて、金光様のご信心を頂いておることのです、有難さを、しみじみ感ずる心。
 その心を今日は、私は和賀心と言うておる。だからそういう心の状態があるならばです、もうどのような事でも、一心に願えば、おかげになるという事。おかげになるという事は、そのまま、親孝行であるということ。だから成程、神信心のなき人は、親に孝もなき事ということがわかるでしょう。こげな事は神様にお願いされん、というような親不孝な者がおるということ。だから、信心で言う親孝行とか、人の道を知らぬとかという事は、その様に違ってくるわけですね。
 これは金光様の御信心をもってして言えれることなんです。特に、人の道を知らぬこと。人間であれば、人間の道を歩いておると言う、そういう道ではなくて。ここである人の道というのは、親神様に通う道、天地に通う道なのであります。昨日の御理解の中に、公害問題のことが出でおりましたですね。困った事だ、困った事だと。というような生き方だけでなくて、せめて金光教の信心しておる者だけくらいはです、その事に対してお礼を申し上げなければならんと。
 私自身はそのことを、公害問題という事については、御礼を申し上げておるというお話をしましたね。ここまで人間が成長したこと。人間の智恵力で、ここまで、言わば月の世界にでも行ける程しの事が出来るようになったということは、これは神様にお礼を申し上げるべきことだ。そして公害問題を取り上げるということは、ここにこれは、こういう難儀な問題になる事を、気付いたということは、これからは、その難儀をも積み重ねていくことはあるまい。
 これからはそこに善後策が講ぜられるであろう。それから公害の問題から、段々解放されてくるおかげになってくる外ない。もうここに気付いたのである、人間が。だからそこに気付いた事は有難い。ここまで信心が、人間が進展してきたということも有難い。だから私は、お礼を申し上げるより外にないというような事を申しましたですね。私は人の道とは、そういう事だと思うですね。
 言うならば、御礼を申し上げねばならない事に、御礼を申し上げずに、不平不足、不満を言うたり、恐怖心を起こしたり、取り越し苦労しておると言うような事がです。私は人の道をも間違えておる考え方だと思います。頂いておるものに対しては、おかげを受けておることに対しては、お礼が言えれる心が人の道なのです。あればかりは、いくらしてやったっちゃ恩義は知らん。お礼も言わんと言うでしょうが、人の道では、そげん言うでしょうが。神様に対しても、そうなんです。
 お礼を申し上げねばならない事に、不平不足を言うておるなら、これは人の道を知らんのも同じ事です。神様には神様の道、人には人の道がある。その神様の道と、人の道とが一つの共通点というかね見出だしたところ、そこに天地に道ありと言われる、その天地の道に出たところになるのです。人間ばっかりは、我がええごと言う奴じゃと、神様が思いなさるような事ではない。御礼を申し上げるべきところは御礼を申し上げさせて頂いて、願うところは願うていくと言うのが人の道なのである。
 だからこれは金光様のご信心をしなければ、人の本当の意味に於いての人の道がわからん。そういう意味のことだと思いますね。道徳的なもの、修養的なもの。そういう道と言う道とは違うのです。ここで言う人の道は。信心はなかっても道徳的な、言わば修養を積んだ人が沢山ありますよ。けれども神信心のないと言うことはです、人の道を知らぬも同じ事だと言うておられるのですから。これはそういう道でない事はわかりますね、ここでは修養道徳的なものではない。
 どこまでも信心によって、人の道をわからせてもらうという道が人の道であります。今日は、私はここの御理解から、本当に新たな開眼をさせて頂いたような気がすることは、願っておかげを受けると言うことが、親孝行だと言うこと。だから、願っておかげが頂けない時には、まだ生神金光大神天地金乃神一心にと仰る、その一心が欠けておると知るより外にない。同時に、生神金光大神の御取次によって、天地金乃神様のご信心を頂くようになった事の喜びというものを。
 まだ皆さんが、しみじみと感じ得ていないと言うことになる。そういう心で一心に願えば、それはどのような事でも願わせて頂ける。願うことが親孝行。願うことが人の道にも、親孝行の道にも通ずるんだという事を、今日は申しましたね。どうですか皆さん。昨日、美登里会で皆が言われたことはです。本当に合楽に御神縁を頂いておると言うことをです。昨日ある方が、○○教会の方とお話をされた。
 そしてそういう状態の中で、よう金光様のご信心が続けられる事だと思うたとこう言う。それに引き替え、合楽の者は、どげん思うても、合楽に御神縁を頂いたという事は、もう大変な事だということをわかりましたと。合楽にご縁を頂いておるという事が、しみじみ有難いと思う心なのですから、皆さん、どうですか。その心ならありましょうもん。合楽に御神縁を頂いておることが、しみじみ有難いというその心でです。
 それがわかるならば、それが感じるならば、その心で、生神金光大神天地金乃神一心に願わにゃいかんです。だからここでも少し、お互いがわからなければならん事は、一心にと言うことが、も少し検討されなければいけませんね。一心に願わなければいけません。それは例えば私が氷水を頂く時に、どうぞ頭が痛うならんようにと言うて一心に願う。勿論心の中に信心を頂いておることの、天地の親神様を頂いておることの有難さを、しみじみ感じながら一心に願うから、成程頭がそれ以来痛くならない。
 そのかわり頂くだびにお願いする。いっぺんはそれをお願いせんなりに頂きよったら、ちょっと痛みだしたです、ちっとばかり。あら今日はお願いするとを忘れとったと思うて、お願いしたらすぐおかげ頂いた。だから願うということが、どんなに素晴らしい事か。願うという事は、神様はこうやって、もう手ぐすね引いて待ってござるという事です。実を言うたら。氏子が願うと言うこと、待ってござるのだもん。
 やろうごとしてたまらんでござるのだもの。だから願うことも親孝行だと、今日私は申しました。願わしてもらはにゃそのために、金光様の御信心を頂いておるということ。金光様の御信心によって、天地金乃神様を知ることが出来た。こういう親神様がある事が解った事をです、しみじみ有難いと感じて、一心に願えと言うところにです、親に孝行の道も、又は人の道も自ずと解って来るという事になるのです。
   どうぞ。